2010年08月06日

ペリーは相撲が気に入らなかった

1854年(嘉永7年)ペリーの黒船が前回を上回る7隻の艦隊で再来航、江戸湾に侵入しました。

ペリーに対し、浦賀奉行所は鎌倉での交渉を提案したが、参謀長のアダムスはこれを拒否、江戸での交渉を要求。調整の結果、横浜となりました。

2月10日約500名を率いたペリーが横浜に上陸し、急造した応接所で日米交渉がおこなわれました。


第1回の交渉で幕府は林復斎を交渉にあたらせました。
(林は老中・安部正弘が全権として信頼をよせていました。しかし皮肉なことにかって悪辣な手段によって蘭学者を弾圧した元町奉行・鳥居耀蔵は林の実兄なのです。)


第1回の交渉の冒頭で林は、昨年、将軍家慶が没したため、手交された国書で求められた3条件のうち、難破船員の保護・優遇、石炭・水・食料の給与はするが、自由貿易については認められないと発言した。
するとペリーは承諾し、第1回の交渉は紛糾することなく終了しました。

2月19日、2回目の日米交渉、この日の議題はアメリカ船舶への物資の補給地、すなわち開港地の決定です。

林はまず慣例に従って長崎を提案します。

しかしペリーはこれを拒否し、浦賀、松前、琉球の3港を要求してきます。林は浦賀を拒絶します。
するとペリーは横浜の開港を迫ってきました。

林は松前、琉球は保留とし、横浜のかわりに幕府の最大の譲歩ラインである下田を提案します。

これに対してペリーは下田を測量調査したうえで判断すると返答し交渉を終えます。

後日、幕府参与の徳川斉昭は下田開港を提案したことを激怒したが、老中首座・安部正弘は江戸に戻った林を加えて、斉昭に開戦の危機を訴え、ようやく承諾を得たのです。


2月26日、幕府の譲歩に気をよくしたペリーは、幕府からの贈答品の返礼として持参した汽車の模型(模型といっても時速30キロで走ったらしい)と電信機を披露し、実演してみせた。

幕府の役人は目を輝かせ子供のように喜んだそうです。


日本側は江戸の相撲年寄が「どのような御用でも務めたい」と町奉行に申しいれ、当時活躍中の力士が横浜へ動員されました。

身長2メートル、体重150キロという巨漢の力士もいてアメリカ兵が2〜3人で持ち上げていた米俵を軽々と一人で持ち上げ、なかには5、6俵を
持ち上げた力士もいたようでアメリカ兵を驚愕させました。

そして応接所に設けた土俵で取り組みが行われました。

しかしペリーはこの相撲を気に入らなかったようで「血に飢えた獰猛な一対の動物のようだ」と手記に記述しています。


さらにペリーはアメリカが披露した汽車の模型の実演と日本が催した相撲とを比較して「半開国民に対する科学と文明の勝利であった」と感想を残しています。

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2010年07月25日

不況時代の龍馬像

NHK大河ドラマ「龍馬伝」も見ごたえがでてきたと思います。

それにつれて坂本龍馬関係のテレビ番組や書籍も多くみられるようになりました。


時代の移り変わりとともに、ヒーローとして求められる坂本龍馬像というものも変わってきています。


高度経済成長期には、龍馬の持つ楽天的かつ豪放磊落でありながら、友情に厚く限りなく優しいというイメージであったと思います。

その時代が求めるヒーロー像にマッチしていたからでした。


現代は、長引く不況下におかれる状況の中で、若者の多くは、何かに属するということをあまり好まないといいます。

また、男女の間で壁を作ることをせず、性差の区別をつけることも避けるという傾向にあるそうです。

NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、そういう時代の背景に沿った、新しいヒーローとしての坂本龍馬像ができると期待しています。

坂本龍馬が生きた時代は、天皇派と幕府派に分かれ、それぞれが殺気立っていた時代ですが、その中において彼は、ほかの人とは違っていたそうです。

人の話は謙虚に聞き、受け入れることのできる、コミュニケーション能力に優れていた人だとされています。

また、女系家族のなかの末っ子として育ったことで、女性との間に壁を作ることがなく、女性の話にもチキンと耳を傾けたといいます。

土佐藩を脱藩したため、何にも属さず、何も背負ってはいなかったという状況も、現代の若者の心に響くのではないかと思います。


こういった新しい龍馬像にピッタリだったのが、福山雅治さんだったそうです。

福山さんによって、「龍馬伝」のなかで新しい坂本龍馬が作られていくということですね。



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2010年07月24日

対馬海峡あたりで散骨して

劇作家で演出家のつかこうへい(本名・金峰雄=キム・ボンウン)さんが2010年7月10日に肺がんのため千葉県鴨川市の病院で亡くなりました。

遺書を残していたこともわかりました。

しばらくしたら自分の娘に日本と韓国の間の対馬海峡あたりで散骨してもらいたい、などと書かれていたそうです。



ところでつかこうへいさんに『幕末純情伝』という作品があります。

美少年とされる新撰組の沖田総司は、実は女の子だったという大胆な設定のもので、龍馬と土方歳三との三角関係をユーモラスに描いた異色ラブコメディーです。

当時のキャッチコピーは幕末を生きた、坂本、勝、桂、そして新撰組。
女である沖田を巡り様々な思い、行動を取る人々。時は経ち、大政奉還の日。沖田と坂本の運命は…。とっ!!


映画や演劇でたびたび上演されています。


1991年に薬師寺光幸が監督した映画があります。
この映画のキャスト は
牧瀬里穂(沖田総司)
杉本哲太(土方歳三)
渡辺謙(坂本竜馬)
伊武雅刀(近藤勇)
財前直見(深雪)
石丸謙二郎(大久保利通)
榎木孝明(松平容保)
柄本明(桂小五郎)
津川雅彦(岩倉具視)
桜金造(西郷隆盛)
松金よね子(お登勢)
木村一八(岡田以蔵)
伊藤敏八(中村半次郎)
角田英介(井上源三郎)
貞永敏(山南敬助)
野崎海太郎(原田左之助)
五島拓弥(永倉新八)
友居達彦(藤堂平助)

という面々です。

病気療養で2年間の休業をしていた渡辺謙さんは、この龍馬役で見事に復活を果たされましたね。



そして今話題の映画「インセプション」
人の夢の世界にまで入り込み、他人のアイデアを盗むという高度な技術を持つ企業スパイが、最後の危険なミッションに臨む姿を描くという想像を超えた次世代アクション・エンターテインメント大作。

主役はレオナルド・ディカプリオ。

そして物語のキーマンとなる重要な役どころを渡辺謙さんが好演しています。


渡辺謙さんはいまやハリウッドで一番油の乗っている俳優だとか。



もし坂本龍馬ももっと長生きしていたらアメリカに新天地を求めていたことでしょう。



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2010年07月21日

加尾の兄 平井収二郎

平井収二郎(1835〜1863)は天保6年高知城下井口村の新留守居組平井伝八直澄の長男として生まれています。

名を初め幾馬、徳助、志敏、義比。雅号が隈山(わいざん)といいます。


平井収二郎は坂本龍馬と同じ年で親交が深かったようです。

また妹の加尾(1838〜1909)は坂本龍馬の初恋の相手ともいわれていますね。

龍馬の姉乙女とは一弦琴仲間でもありました。

兄妹とも坂本家と親しい仲であったようです。


妹の加尾は安政6年から4年間、藩命により京で三条公睦に嫁いだ、山内容堂の妹姫付きの奥女中として仕え、そしてその頃池内蔵太らの困苦病気の仲間を救う話が残っています。

のちの土佐勤王党員らとの交流があり、その後勤王党員であった西山志澄と結婚しています。


そして収二郎は英邁闊達で戦国策士の風があり幼少の頃より文武に励み、
藩校教授館で教授方を勤めた漢学者中村十次郎(西里)に学んでいます。

更に伊勢国へ赴いて硯学・斎藤拙堂にも儒学を学んでいます。


文久元年8月武市半平太が江戸にて土佐勤王党を結成すると収二郎は157番目に血判署名します。

しかし収二郎は土佐勤王党で幹部として活躍したのに加盟が157番目というのは遅いような気がします。
ただ名簿に名前を記載するのが遅かっただけなのでしょうか?


勤王党を結成する以前から武市半平太や坂本龍馬、収二郎は幼なじみとして行動をともにしていました。しかしだんだん己の進む道が違っていたのです。


ところで、収二郎は文久2年には藩主山内豊範の参勤交代に随行して土佐を出国。
8月に上洛してからは他藩応接役に任命され、諸国の志士らと交わるようになります。

そして、彼らは土佐藩邸に住むと動きに制限が出来るからでしょう、
半平太が三条小橋上ル所に借家を借りて萬居とすると、
収二郎もその近所に屋敷を借り、
千屋菊次郎と家来1人と同居するようになります。

半平太が勅使に随行して江戸へ出た後は、収二郎が京において中心的な存在となったのです。


更に収二郎は12月17日間崎哲馬や弘瀬健太らと土佐の藩政改革を目論み、青蓮院宮に拝謁して、宮から信頼を得ていた立場を利用して土佐藩に改革を迫る令旨を出させるように青蓮院宮に裏工作をしたのです。


収二郎らが活動を続けていた最中の文久3年1月28日、山内容堂が入京すると状況は一変します。

勤王党員らの活動を快く思っていなかった容堂は、入京即日軽格の者14名ほど呼び叱り、半平太を除いた勤王党員の政治活動を禁止したのです。



しかし容堂の訓示にも関わらず収二郎は活動を続け、28日姉小路卿や関白鷹司と面会。
これが容堂の耳に入り、更に1月27日にあった久坂玄瑞提唱で京都の翠紅館に尊王攘夷派が会合した際にも、土佐藩を代表して出席していた事から、遂に容堂の逆鱗に触れてしまったのです。


29日収二郎は小畑孫次郎と共に容堂に呼び出され叱りを受け、
更に2月1日他藩応接役を解かれて土佐へ帰国を命じられ、
弘瀬健太、間崎哲馬は捕縛され土佐に送還されてしまいました。

土佐へ帰国後の収二郎はしばらく自宅で軟禁状態が続きますが、その後投獄されています。

同じく帰国を命じられて土佐に戻っていた半平太は、山内容堂と面会して必死で釈放を嘆願しますが聞き入れられる事はありませんでした。

そして、間崎哲馬、弘瀬健太と共に切腹。

土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となります。

享年は29と28の2説があるようです。



大河ドラマ「龍馬伝」の平井収二郎役の宮迫博之さん、ちょっと暑苦しかったけど迫力はありました。

宮迫さんはツイッターをやっているんですね。



そしてシャンプーの宣伝と活躍中です。




恐妻家というのは営業のイメージ作りと違いますか。

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2010年07月12日

自分を曲げない男

大河ドラマ「龍馬伝」では武市半平太の最後が描かれていました。

時代を動かそうとして動かしきれなかった男を大森南朋が熱演しています。

半平太の生き方がよく現れています。


「維新土佐勤皇史」に、半平太を《身長六尺、眼に異彩あり。その顔蒼白、喜怒色にあらわれず。人或いは墨龍(ぼくりょう)先生と呼ぶ。一たび口を開けば音吐高朗、人の肺腑に徹す》と書かれています。

顎骨は少し張り出していたけれど、かなりイケ面であったようです。半平太自身、おのれの容姿には密かに自負するところがあったらしく、身なりには人いちばい気を使い、流行にも敏感で、月代(さかやき)なども講武所風に狭く剃りを入れていたといいます。


そして、なかなかの教養人でもありました。

和漢の学殖深く、武芸にも秀で、書画にも通じていました。


ところで半平太が和漢を学んだ徳永千規(とくながちのり)は、鹿持雅澄(かもちまさずみ)の門人でした。


武市半平太の父の妹、武市菊子は鹿持雅澄に嫁いでいます。

すなわち鹿持雅澄武は市半平太の叔父なのです。


鹿持雅澄は五十年の歳月をかけて「萬葉集古義」全百四十一冊を著した土佐の碩学です。

その一方鹿持雅澄はペリー来航以来の幕府の対応を痛烈に批判し、「大君主は天皇にまします。将軍は天皇の臣なり」と天皇家の君主としての正当性を強調して、武市半平太の尊攘思想に大きく影響を与えたといわれています。


鹿持雅澄の形成した皇朝学・復古思想は土佐勤王党の原動力ともなっていたのです。







posted by 龍馬学科 at 15:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 武市半平太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする