ペリーに対し、浦賀奉行所は鎌倉での交渉を提案したが、参謀長のアダムスはこれを拒否、江戸での交渉を要求。調整の結果、横浜となりました。
2月10日約500名を率いたペリーが横浜に上陸し、急造した応接所で日米交渉がおこなわれました。
第1回の交渉で幕府は林復斎を交渉にあたらせました。
(林は老中・安部正弘が全権として信頼をよせていました。しかし皮肉なことにかって悪辣な手段によって蘭学者を弾圧した元町奉行・鳥居耀蔵は林の実兄なのです。)
第1回の交渉の冒頭で林は、昨年、将軍家慶が没したため、手交された国書で求められた3条件のうち、難破船員の保護・優遇、石炭・水・食料の給与はするが、自由貿易については認められないと発言した。
するとペリーは承諾し、第1回の交渉は紛糾することなく終了しました。
2月19日、2回目の日米交渉、この日の議題はアメリカ船舶への物資の補給地、すなわち開港地の決定です。
林はまず慣例に従って長崎を提案します。
しかしペリーはこれを拒否し、浦賀、松前、琉球の3港を要求してきます。林は浦賀を拒絶します。
するとペリーは横浜の開港を迫ってきました。
林は松前、琉球は保留とし、横浜のかわりに幕府の最大の譲歩ラインである下田を提案します。
これに対してペリーは下田を測量調査したうえで判断すると返答し交渉を終えます。
後日、幕府参与の徳川斉昭は下田開港を提案したことを激怒したが、老中首座・安部正弘は江戸に戻った林を加えて、斉昭に開戦の危機を訴え、ようやく承諾を得たのです。
2月26日、幕府の譲歩に気をよくしたペリーは、幕府からの贈答品の返礼として持参した汽車の模型(模型といっても時速30キロで走ったらしい)と電信機を披露し、実演してみせた。
幕府の役人は目を輝かせ子供のように喜んだそうです。
日本側は江戸の相撲年寄が「どのような御用でも務めたい」と町奉行に申しいれ、当時活躍中の力士が横浜へ動員されました。
身長2メートル、体重150キロという巨漢の力士もいてアメリカ兵が2〜3人で持ち上げていた米俵を軽々と一人で持ち上げ、なかには5、6俵を
持ち上げた力士もいたようでアメリカ兵を驚愕させました。
そして応接所に設けた土俵で取り組みが行われました。
しかしペリーはこの相撲を気に入らなかったようで「血に飢えた獰猛な一対の動物のようだ」と手記に記述しています。
さらにペリーはアメリカが披露した汽車の模型の実演と日本が催した相撲とを比較して「半開国民に対する科学と文明の勝利であった」と感想を残しています。
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